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子どもと遊んでいると、いつも真木悠介の『気流の鳴る音』に書かれていた「明晰さについての明晰さ」というくだりを思い出す。コヨーテがしゃべるということをあたまから信じないのが、ふつうの人の「明晰」、つまり近代合理主義の盲信である。これに対して、コヨーテがしゃべるということを信じてしまうことが、呪術師の「明晰」、非合理性の称揚である。しかし両方の世界がともにカッコに入ったものであり、どちらも「現実」であること、「現実」はもともとカッコに入ったものであることを見る力が真の「明晰」であると書いてある。そうした「メタ明晰」というものをあらかじめ持っている時期というのが幼年期で、見る力を持っているのが子どもたちなのではないか。だから大人たちの仕事は彼らの目線、その明晰さをできるだけ損なわないよう付き添い、導いてあげることなんだと思う。
年がら年中レコードばかりインスタグラムにポストしている友人が、珍しく小さなzineをインスタグラムに上げていた。東郷清丸というアーティストによるそのzineは自分の子どものことを書いているらしい。面白そうだね、とメッセージを送ったら最高だから仕入れてみなよ、と言う。早速、東郷さん本人に連絡を取り、昨日そのzineが届いたのでその場で夢中になって読んでいるとこんな文章にぶつかった。
"子供は、置かれた環境の中におもしろいものを見つけて遊びを構築していく能力がすごく高い。駐車場の縁石ひとつが綱渡りの舞台になるし、アリが歩いていればお喋りの相手になる。基本的には野放しにして、大人は、重大な危険を回避したり、手助けを求められたときに応じるだけで十分だ"
アーティスト東郷清丸が3歳になった実の娘・円(えま)ちゃんが生まれるまで、そして生まれてからの日々を綴ったこのzineには円ちゃん、そして我が子を産んだ妻へ注がれる微笑ましい視線の奥に見える「明晰さ」への憧れがある。
おれにもおっぱいがあったらとタオルやヌーブラを巻いてみたり、出産の痛みを自分も体感してみたいと15時間歩こうとしたりすることの先にある女性への畏敬の念と、その先にある子どもという存在への神秘。
あらゆる属性の人びとに対して嫌味なく、こんな風に子どもとの日々を書いてみたいと思わせるユーモラスで穏やかな筆致で描く、我が子との素晴らしい日々。
(2023年・セルフパブリッシング)