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90年代というのはそれまで文化の中心を担ってきた大企業やマスメディアの手を離れ、個人が個人の可能性を模索し、拡張していった時代だった。
まだスマートフォンもなく、インターネットも普及していない時代に、大きな企業体ではなく、ひとりの個人が、もしくは友人たちと数人であたらしいことを始める余地が残されていた。決して昔は良かった、と言いたいわけじゃない。プロフェッショナルの手によって、きちんとプロダクトとして完成され、産業化されたものが良しとされていた時代から、アマチュアの人間による手づくりの、人の血の通ったものが好まれる時代へ、価値観が転換するちょうど分水嶺にあたる地点が90年代だった(のではないか)。必然的に個を志向した人びとの生き方は大資本や権力へのカウンターから始まった、1970年代の自然回帰的な生き方に似通っていたような気がする。
永井宏さんの『雲ができるまで』の初版が出版されたのが1997年。ここで描かれているたくさんの人びとの物語は、高尚な考え方や大きな資本の力を借りて何かを始めるのではなく、日々の暮らし、生活の営みの中から生まれてくるものを身の丈に合ったやり方で組み立て、続けていこうとするものばかりだ。
あれから25年が経った。あらゆることがすべて消費し尽くされて、すべての物事が並列に見える時代に、この本はそれでも何かあたらしいことを始めようとする人びとの背中を押してくれるだろうか。
1990年代初頭の湘南。文筆家で編集者、美術作家の永井宏さんが葉山で営んでいた〈サンライト・ギャラリー〉に集う人びとが模索する自分らしい生き方。
生活することがひとつの表現になる、とっておきのストーリーをスケッチした作品集が初版から25年、待望の復刊。
(2022年・信陽堂)