"その日のうちに歩行者用の地下通路を通りました。
モスクワでは、大通りを横断することはできません。
下を使うしかない。
電球もネオンもほとんど盗まれていたのでしょう、トンネル内はほとんど明かりがなく、暗い隅っこで 人だかりがありました。
近づいてみるとトンネルの壁に押し付けられるようにうごめく 男たちだけでした。
彼らは壁を一心不乱にじっと見つめていました。
薄暗いため、わたしは近づいて目をこらさなければなりませんでした。
壁に描かれていたのは、アメリカの「プレイボーイ」誌のセンターの女の子でした。
前列の男たちは鼻の先が絵に触れるほど壁の絵にとても近づいていて、
絵の前に約30分ほど留まっていました。
そして、次の列に道を譲るのです。
わたしは彼らを写真に収めようとしました。
でも、トンネル内は暗すぎてうまく撮れませんでした"
ロシアという国名を聞いて思い出すのは、〈トロイカ〉という名前のロシア料理店と、ヴィム・ヴェンダースの『ONCE』に収められたこのなんということのない文章のこと。
ヴェンダースが「かつて」と名付けた世界は、今となってはほんとうに遠い場所に存在する。まだソヴィエト連邦と名乗っていた時代の、どこか前時代的でのんびりとした空気感を感じるこの描写と、2022年のいま、世界で起こっていることの落差を自分のなかでうまく咀嚼できずにいる。
(2010年・D・A・P/古書)